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カテゴリー「風林火山豆知識」の10件の記事

2007年2月 9日 (金)

風林火山 豆知識⑩

烽火アラカルト

先日の
風林火山ドラマ「花倉の乱」の中でも、
ちょっと出てきてましたが、今日は烽火について書きます。

そもそも、烽火っていつ頃からの風習なんでしょう。
火や煙を使って、遠方に知らせる通信手段は実は、
弥生時代に既にあったそうです。

烽火を統制化して、通信手段としていたのは6,7世紀
の飛鳥時代のようです。

烽火台は40里間隔で設置されて、昼は煙、夜は火を
燃やすという様に決まっていたようです。

こんな時代から、もう統制化してたんですね~。

P1000054.jpg

山国の甲斐では、煙による烽火が一番の通信手段だった
んですね。 確実に早く情報を送るために、山頂からは
もちろん山間も短い距離でリレーするネットワーク

構築されていたようです。

山梨には、今もその烽火台の古跡が数多く残ってます。
いずれも、周辺地域から甲斐の信玄居館へ向けて伝達
される仕組みになっている。

甲陽軍鑑にはこの烽火ネットワークを武田氏の通信手段
として、「飛脚篝火」という名称で紹介しています。

また、山梨には金山・鐘山・鐘撞堂山などいくつもの
地名が残っていることから、火や煙を仕えない時は音、
鐘や太鼓などが利用されたのではと言われています。

P1000053.jpg

戦国時代にあって、はたまた山国の武田にあっては、
情報は合戦、そして国の死活を制する問題であったの
ですね。

これからの大河ドラマの中でも、合戦のシーンとか
いくつも出てくると思いますので、飛脚烽火が出て
来るか、ちょっと楽しみです。

      では、また。


2007年2月 7日 (水)

風林火山 豆知識⑨

甲州法度

甲州法度または信玄法度と言います。
昨日の甲陽軍鑑の話の中でちょっと出てきましたので
紹介しま~す。

IMG_0352.jpg


昨日も書いたように、甲陽軍鑑の冒頭にこの甲州法度
はでて参ります。
1547年武田信玄が定めた甲斐の法律・規律ですね。
全57カ条からなります。
その内容は、軍事・司法・行政にわたり、幅広い内容
が記載されております。
規律を設け全ての民を平等にとの、信玄の思いがあった
のでしょうか?
その一端が内容からも読み取れます。

例えば、「喧嘩両成敗」。 この文句良く知ってます
よね。 幼い頃、兄弟で喧嘩などするとよく言われたり
してましたよね。
実は、「喧嘩両成敗」この信玄法度の中の条目にあるん
です。 驚きましたよね~~。 信玄法度から来ていた
なんて思いもしませんでした。

しかし、それ以上に驚く事がこの57カ条の中にあるん
です。
 

それは、少年法の規定です。

26条にこう書かれています。
子供が誤って友達を傷付けたり、殺したりした場合
に、13歳以下の子供ならその罪を問わない」とある。

凄いですよね。まさに少年法が定められていたんです。
この時代にもう既にあったのです。
おそらく、世界で初めて制定されたんではないかと
思います。


その他には、信玄自身をも律する規定も設けられて
いるんです。
55条には「晴信(信玄)といえども、この法度に
ついて違反した場合があったならば貴賤を問わず、
目安にしたためて訴えでよ。そうすれば時宜に応じ
て処罰するだろう
。」っと記しているのです。

信じられますか? 自らをも律する一条を入れて
しまうんですよ。  起案者なのに。

本当に、ただ規律を創り国を統治しようとしただけ
の法律ではない事が判りますね。

そこにあるのは、民中心の考え方、民衆ありきの
考え方ですね。
だからこそ、甲斐の国は山に囲まれている貧しい
国であったが、団結・連体が強く、甲州騎馬軍団と
して恐れられていたのかも知れませんね。

しかし、まさに戒めの書の冒頭にふさわしいと思わ
ざるを得ない、甲州法度であると思ってしまいます。

IMG_0392.jpg

現代の世では、なにやら色々騒動が起きてますが、
一番大事な「民を重んじる」という大事な根幹を
忘れないでもらいたいですね。

         では、また。

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2007年2月 6日 (火)

風林火山 豆知識⑧

甲陽軍鑑とは!

この時代の史実を知る上でまた、戦国時代の軍学を垣間見る
上でとても大事な史料と思われます。

この甲陽軍鑑に対する評価の論議も有るようですが、それは
ひとつ置いておいて、軍鑑について語りたいと思います。
ご了承を!

甲陽軍鑑は全部で20巻59品からなり、合戦や訴訟の裁決、
武田信玄の事柄に関する事が中核に記録してある。
武田の軍団構成、はたまた、国と家を滅ぼす類の型を
4分類系にして記述している箇所もある。

甲陽軍鑑は江戸時代に入って広く拡まったようです。
甲陽軍鑑は戦国時代を描いた軍書の権威と、捉えられていた
ようです。

P1000080.jpg


軍鑑とは『軍』(いくさ)『鑑』(かがみ)という意味です。
軍鑑は徳川家康、秀忠によって公認された軍学書であった。
家康によって「永遠の兵制の模範とすべき軍学」と定められた
のが、この甲州流軍学であり、「甲陽軍鑑」であったのです。

ではなぜ家康がこれ程までに、この軍鑑を推奨したのか?

甲陽軍鑑の冒頭には甲州法度・信玄法度といわれる言わば
法律の記述が一番はじめに出てきます。
これだけでも普通の書ではないと、思いますね。
つまり武田の理念、信玄と軍団の行動哲学を披瀝する事から
内容が始まるのです。
こうした単なる軍記物ではない意図から、江戸時代
を通じベストセラーとして残されてきたのですね。

でもそれだけでは「永遠の兵制の模範とすべき軍学」と家康
が言うとは思えませんね。

実はこういう見方もあります。 

簡略に言うと、戒めの書とでも言いましょうか?
武田は信玄の時代は全盛期、後に段々と衰退していきました。
このままではいけないと、信玄時代の武略や人生訓などを書き
残すべく書かれた書であったのです。
もちろん当時は信玄の子、勝頼に宛てたと思われます。

武田軍の弱体化を危惧した「高坂弾正昌信」が記したとされて
います。

軍鑑は信玄時代と勝頼時代を比較して、(軽薄さ・嫉妬・虚言
・臆病・嫌みなど)組織における人間模様のマイナス部分をこれ
でもかと、綴っています。
だからといって、昔にもどれという事を言っているのではないの
です。 そこに言えるのは「武士道」であると言っています。

強き時代の武田家本質は何だったのか、根幹は何だった

のか、忘れてはならぬ。 

武田家は賢臣を遇し、重厚さを備えよ、
虚言の者を排さなければならない。 

でなければ、武田は滅びるであろうと言うのが、

軍鑑の言いたいところであったのです。

家康のこれを軍学のテキストとした、意味がなんとなく判った
ような気がしますね。

しかしこれは、現代の社会の中にも言えることではないですかね。
戒めを戒めと捉えなければ、弱体していくのだと思います。
謙虚な心根を保っていくと言うのは、とても難しい事なのでしょう
ね。 でも、心がける事が大事ですよね。

     では、また。

追記
甲陽軍鑑に関しては色んな論評があると思います。
上記述は私の主観的観点が多いです。 ご了承を。


2007年2月 2日 (金)

風林火山 豆知識⑦

明日の会話に役立つ 風林火山豆知識

「由布姫・湖衣姫・諏訪御料人」さて何の事?

風林火山のヒロインと言ったら、諏訪の美しいお姫様ですよね。
信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘である。
この諏訪姫は9歳の時に人質として既に甲府に送られていて、
14歳の時に信玄の側室として迎えられたとの事です。


滅ぼした敵方の娘を側室に迎え入れる事に武田家の重臣からは
強く反対をされたようです。
しかし、ここで勘助が登場して重臣たちを説き伏せて諏訪姫を
迎え入れたと言われています。


その内容はともかくとして、これによって諏訪の人々は喜び
後に武田勝頼が誕生する事になる。




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さて、その諏訪姫の本当の名前は何と言うのでしょう。

由布姫・湖衣姫・諏訪御料人・・・・??????

実は「由布姫とは作家井上靖が、著書風林火山を書いたときに
執筆していた場所が大分県の湯布院であったことから、由布姫
となったと言われています。

湖衣姫はと言うと、こちらは原作「武田信玄」で新田次郎が
描き出した諏訪姫を湖衣姫と名付けたとの事。


ですから、井上靖は由布姫。 新田次郎は湖衣姫という事に
なります。



なんと、作家によって名前が変わっていたんですね。
では、本当の名はと言われると実は伝えられていないと言う
のが本当の所なんです。
ですから、美しくインパクトのある名前を当てられてきたの
ですね。
正式には、諏訪の御料人と言うのが正しいのだと思います。



ですがそれではヒロインとして味気ない。
やはり美しい名前で登場するのが好ましいですね。



今回の「風林火山」では井上靖原作ですので、もちろん
「由布姫」として登場ですね。



ドラマではまだ姫の登場は先の話だと思いますが、湖衣姫
が出てこないと言わないで下さい。
今回は「由布姫」なんです。


こういった経緯があるのだと知っていて、ドラマを見ると
また違った趣になりますね。

    では、また。
 

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2007年2月 1日 (木)

風林火山 豆知識⑥

明日の会話に役立つ 風林火山豆知識

さて、今日は勘助についてです。
最近
書籍インターネット上でも良く目に付くのですが、
「山本勘助は実在したのか?」という文を見かけます。
今更何だろうと思いますが、論議が少しあるようなので、
私なりの見解を今日は書きたいと思います。

実際問題、山本勘助に関しての史実や書暦は少ないのは
確かです。特に前半生に関しては全くと言っていいほど
解っていないようです。
この辺りからも実在していないのではと疑念されている
のかも知れません。

また、江戸時代初期に成立した「甲陽軍艦」にのみ勘助は
登場してくるが、他の確かな資料などからは勘助の名は
出てこない。 こうした事から”架空の人物ではないかと
その存在を否定されしまったようです。
その後あらゆる変遷があり、史学会からは山本勘助は架空
の人物、存在しなかったとされてしまったのです。

ところが、ところがデス


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勘助の実在を証明する書状が見つかったのです
それは「市河文書」と言われるもので、武田信玄から市河藤若に
宛てられた書状で、(市河藤若:野沢温泉近く北信濃の豪族)
第三回川中島合戦の直前と思われる内容。(内容は割愛)
この書状は信玄が書いた本物手紙である事が、鑑定の結果
判明したそうです

その中に「猶、山本勘助口上あるべく候」と一文出てくるのです。

勘助は実在したのです。 が、軍師であったのか、武田の
中で重臣的立場だったのかは定かではありません。
しかし、甲陽軍艦によれば勘助はこのように信玄の命を
受け度々使者となっていたようです。

この当時の使者といえば、並大抵の事では務まらない大役
もしかしたら寝返るかもしれない、相手方で捕まるかもし
れない、はたまた殺されるかもしれません。
何があるか解らない時代です。

そんな折の使者ですから、それ相応の者であり、絶大な信頼
がなければなりません。
その意味からも、勘助は武田信玄から信頼を置かれ、武田
家の中でも重臣的な立場であったろう事は推察できます。

「山本勘助は実在した。」そして、武田家においても
重要な立場の者であった。
これは間違いないのではないでしょうか?

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私の参考文献にしている書物や甲陽軍艦自体が、
間違っているのであればこれは架空のはなしに
なってしまいます。

ですが・・・すべてを否定していたのでは何も
進みません。 寂しい限りになってしまいます。

勘助が実在して、軍師であったと言うほうが
夢とロマンがあっていいじゃーないですか。
私はそう信じます。

      では、今日はこれで。

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2007年1月30日 (火)

風林火山 豆知識⑤

風林火山 豆知識⑤

明日の会話に役立つ風林火山豆知識

要害山城
「人は石垣・人は城・人は堀」と言って甲斐の国には
城はない。   カッコイー
 

城などなくとも人が城なのだと言って、城を造らなかった
ように思われますが、本当の所はそうではありません。


本拠地防衛の城を、造らなくても済んでしまったっと言う
方が正しい表現でしょうか?



信玄は生涯、甲斐の国を出て、外征して戦っていた為
本境地の城を造らなくても済んでしまっていたのです。
戦国大名の象徴として建てられていた城を、建てる暇
すらなく、戦いに明け暮れていたと言うのが本意の様
です

 
なーんだ、人は城なんて言ってるのは格好かと
思われた方、それは本当なんです。誤解のないように。


信玄の周りには沢山の人材、逸材がいたのは事実です。

甲斐の本拠地に城は建ててませんが、敵の勢力に接して
いる地域には、(敵との境になる地帯)甲州流築城術と
言われた立派な城が数多く造られています。
長野の高遠城などは、その代表的な城とされています。


この建固な城を造るために、山本勘助は城取りの名人
して甲斐に招かれたという説もあるそうです。
何にせよ、甲斐には城はないんです。 でも、先日の
ドラマの中でもチョコッと出てきましたが、要害山城
と言うものはあります。
これは山城です。山の形状を利用して造った山館ですね。
躑躅ヶ崎の本館とセットで造られた、要害の山城です。


この要害山城(積翠寺城)で信玄は誕生し、育ったと
されています。
産湯の井戸は「産湯天神」として祭られ、自筆の句も
残されているそうです。


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           それでは、また。
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2007年1月27日 (土)

風林火山 豆知識④

明日の会話に役立つ 「風林火山豆知識

今回の大河ドラマ、風林火山の配役で一番の妙は
何と言っても
Gacktさん演じる上杉謙信ではない
かと思います。


若い人や、Gacktファンの方にとっては何で~
っと思われている人も多いと思われます。

あの! 洗練された、ビジュアル系の、ミュージシャンの
Gacktが時代劇~~~!! っと思うかもしれませんが、
私はとても上杉役のGacktさんに注目しています。


なぜならGacktさんのあのカリスマ性、神秘性、そして
何と言っても、アーティストとしての愚直性にに期待を
しています。
この上杉謙信をどのように表現してくれるのかが、とても
興味があります。

個々の捉え方があると思いますが、
私の上杉謙信像には、Gacktさんは妙にマッチしそうな
気がして、今からとてもワクワク、楽しみです。



前振りが長くなってしまいました。すみません。

さて今日の豆知識は・・・・ 「敵に塩を送る」です。

聞いた事はありますよね。
(上杉謙信が、塩不足で苦しむ宿敵武田信玄に塩を
 送って助けたという故事)


 苦境にある敵を助けるの意。

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武田信玄は今川家との同盟を破棄し、東海方面への進出を
企てます。それに対応して今川は北条と連携して、塩封鎖を
行ったのです。いうなれば、流通封鎖・経済封鎖的事ですね。
四方を山で囲まれる甲斐の国は、塩不足になり領民は苦しみ
ます。
この領民の苦しみを見過ごす事ができなかったのが信玄の
好敵手「上杉謙信」だったのです。


義に厚き民を重んじる謙信だからこそのエピソードですね。

違う角度からの言では、駿河の今川からの塩止めの提案を
受けた時に謙信は「戦いは弓矢で決すべきもの」といって
取り合わなかったそうです。

何にせよ、戦国武将謙信の人となりがわかる一面です。

この実直・義の人・公平・何よりも民を重んじるといった、
この謙信をGacktさんがどう演じるか? 楽しみですね~~。

        では、また。

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2007年1月26日 (金)

風林火山 豆知識③

明日の会話に役立つ 「風林火山豆知識

昨日は山勘・軍師についての豆知識を紹介しました。
本日も山本勘助にまつわる、豆知識で~す。



山本勘助は軍師として、陰陽師をし、空を読み、占星術を
身につけ、儀式の作法までをも取り仕切る役割であったと
紹介しましたが、勘助には更に、もっとも得意とするある
能力があったのです。  それは・・・・


 「城取り」です。

さすが軍師たるもの、城を攻め落とすことがやはり得意
だったのだなぁー っと思った方。

 違います~~~。

城取りとは、この時代の言語で、今で言う築城の事なんです。
なんと、勘助は城を造る事が何よりも長けていたのですね。


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勘助の築城した城は長野に多く、高遠城・諏訪高島城・深志城
(松本城)・小諸城・海津城などです。
勘助の築城技術は卓越したものが有り、独特の創意があった。
その特徴とされるのが、三日月堀、マル馬出しという構造です。

実は先日のドラマ3話で、もう既にその伏線的シーンがありました。
気が付かれましたかね。 粘土のような物で山っぽい模型があり
ましたよね、あれです。よーく見られて方は解ったと思います。


今後ドラマでは、勘助の城取りのシーンをどう表現していくのか
その辺を見るのもとても楽しみです。

そして、この勘助の城取り術は勘助亡き後も勘助流として引き
継がれ、最終的には真田昌幸に伝えられ、そして真田幸村の
「大阪城 真田丸」に生かされたのです。
本当に凄いですよね。 大阪城の真田丸という出城になった
事を考えると山本勘助の城取りの妙と奥深さに驚かされますね。


      では、また!

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2007年1月25日 (木)

風林火山 豆知識②

明日の会話に役立つ 風林火山豆知識」


いきなりですが、霊感・ヤマ勘・第六感ってありますよね!
その「ヤマ勘」は実は山本勘助から引用されています。


「へぇ~~~、そんなんだ~~。」

実際の真意の程は解りませんが、そう言い伝えられてきたほど、
山本勘助という人物像は凄かったという事でしょう。

確かに辞書を開くと「山勘」として載っています。
おもしろいですね~~~~。



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もう1つ、軍師という存在はこの頃まだ無かったとされています。
勘助が草分け的存在だったのですね。
では、その軍師の役目とは!



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初期の軍師は陰陽師的な存在だったらしい。
それが天文を見るようになり、作法としての出陣、
凱旋の儀式までを取り仕切るようになったと言う。


基本は大将の軍事顧問乃至は、相談役的な役割だった
ようです。


「軍配者という」言い方もあるようです。
軍配者は雲を見、気象を予想し、雲の形・色・風向き
などを経験的に掌握し、合戦に応用していったようです。


出陣の作法などもこの頃に成り立ったようです。
その儀式で一番大事なのが、「三献の儀」。

「打鮑」「勝栗」「喜昆布」の3品。縁起担ぎです。
「打って、勝って、喜ぶ」と言う意味ですね。


この3品を口にしながら酒を飲む事から、三々九度も
きているようです。


私も知らなかった~~~~~。勉強になります。

最後は、戦いが終わって勝ち鬨を宣言する。これも
軍師の大切な役割であったようです。

その名残が今のお相撲の、行事の作法になっているとの
話もあります。

何にせよ、軍師とは色んな役割を担っていたようです。
まさに、山本勘助で無かったらできなかった仕事だった
のですかね。


      では、また。

2007年1月24日 (水)

風林火山 豆知識①

風林火山 豆知識①


題名にもなっている「風林火山」

疾きこと の 如く

 徐なること の 如く

  侵掠すること の 如く

   動かざること の 如し


この4つの事象をとって「風・林・火・山」と言っています。

これはもう有名ですから、大体皆さん知ってますよね。
では、実はこの後にあと2つ文句があるのを知ってますか?



それは、「陰・雷」です。

陰とは、知りがたきことは陰の如く。
雷とは、動くことは雷の震うが如く。
という2文句です。


これは元々、中国の呉の国に仕えていた、孫武が書いた

「孫子」と言う兵法書にでている文言なのです。
武田信玄はこの書を読んで、自らの部隊に運用したので

はないですかね。
ではなぜ6文言ではなく、4文言にしたのか?
それは、武田信玄のセンスと甲斐の国を象徴にしたの

ではないかと思われます。
爽やかな風と美しい林郡、情熱の火の如くの民、そして

盆地を覆う美しい山々。それらを踏まえて、「風林火山」

としたのではないでしょうか?


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      では、また!

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